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2008年11月

『思考の整理学 外山滋比古』

平成20年11月29日、応募した会社より、郵便が届き、それによると金融危機のあおりで当分は人事採用を凍結するとの事。
改めて、不況を実感してしまうとともに、はやく抜け出て欲しいなとも願っています。


《読書》

思考の整理学 (ちくま文庫) (ちくま文庫)


買ったきっかけ:
思考とは何かを知りたくて。

感想:
タメになる言葉があった。

おすすめポイント:
必ず,タメになる言葉が見つかると思います。


思考の整理学 (ちくま文庫) (ちくま文庫)


著者:外山 滋比古




思考の整理学 (ちくま文庫) (ちくま文庫)


発想の母体は触媒としての個性である。
発想が扱うものは、周知、陳腐なものであってさしつかえない。そういうありふれた素材と素材とが思いもかけない結合、化合をおこして、新しい発想を生み出す。発想の妙はそこにありというわけである。

思考の整理には,平面的で量的なまとめではなく、立体的、質的な統合を考えなくてはならない。

(何にしても)とにかく書いてみる。
一稿が満身創痍になったら、第二稿を作る。これもただ第一稿の訂正のあとを写しとるというのではつまらない。新しい考えをなるべく多くとり入れるように努めながら、第二稿を作りあげる。これもまた推敲する。それで目立って改善されたようだったら、第三稿を作る。もうこれ以上は手を加える余地がないというところに至ってはじめて、定稿にする。書き直しの労力を惜しんではならない。書くことによって、すこしずつ思考の整理が進むからである。何度も何度も書き直しをしているうちに、思考の昇華の方法もおのずから体得される。

だいたい、修飾語を多くつけると、表現は弱くなる傾向をもっている。「花」だけでいいところへ「赤い花」とすると、かえって含蓄が小さくなる。「燃えるようなまっ赤な花」とすると、さらに限定された花しか伝えなくなる。修飾を多くすれば、厳密になる場合もあるけれども、不用意に行うと,伝達性をそこないかねない。厭味になることもある。

考えるには、ほかにすることもなく、ぼんやり、あるいは、是が非でもと、力んでいてはよくない、というのが三上の考えによっても暗示される。
三上とは馬上、枕上、廁上であり、中国の欧陽修という人が残したことばである。

三上を唱えた欧陽修は、また、三多ということばも残している。これもよく知られたことばである。
三多とは、看多(多くの本を読むこと)、做多(多く文を作ること)、商量多(多く工夫し、推敲すること)で、文章上達の秘訣三ヵ条である。

本文中の下線を引いているものは本書より抜粋したものです。

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『自分を見つめる心理学 加藤諦三』

平成20年11月26日、ハローワークへ行ったけれども、良い仕事がなかった。

感情の起因は自分である、すなわち原因も自分にあるのだ。

《読書》〜読書中〜
自分を見つめる心理学 加藤諦三
http://ec2.images-amazon.com/images/I/2127X3V379L._SL500_AA140_.jpg
心にしみ込む文が多く、なかなかの逸書。


アメリカの心理学者アルバート・エリスの著書の中で
「非合理的な考えの第一として、私はうまくやらなければならない、そして自分がうまくやることによって人々の承認を得なければならないという考え方をあげている」
そのような考え方は、心の底の自己蔑視の反映でしかない。自分を肯定している人はこんなことを信じるものではない。

他人の期待にかなわなければ、自分は劣っていると考えたのは自分なのである。

他人が自分の事を自分の望むように扱ってくれないからと怒り、何かを達成して力ずくで自分のことを認めさせようとする人は、案外何かを達成しながらも人望がないものである。

河童は河で流れても河童なのである。河童は泳ぎそこなっても、それでも水の中で生きる権利がある。河童が一度泳ぎそこなっても、河童として駄目なわけではない。
人間はある一つの欠点があるからといって生きる権利がなくなるわけではない。弱点があるということと生きる権利は両立するものであろう。ある弱点を持っているからといって、自分を卑下する必要はない。

ナルシストで幼児性を持つ人は騙されやすい。
自分を甘やかしたいという性質を持っているが為に騙されやすいのだ。

自己中心的な人は、自分の自分に対する評価(過大評価)と他人の自分に対する評価(過小評価)のズレにぶつかった時、必ず怒る。

組織で働く為には、自分の欲求を抑えなければならないことがある。他人と補いあって、働いていかなければならない。他人の足りないところを自分が補える人でなければならない。自分の足りないところを他人がを補ってくれることもある。
自己中心的な人は、他人の足りないところを自分が持っていると、それを得意になり、誇示する。どうしても他人と強調できない。周囲の人の反発を買ってしまう。ナルシシストとか自己中心的な人とかいうのは、他人と強調できない人である。自分の名声とか、自分の利益とかにばかり気を取られて、他人の気持ちを理解できない。

自己中心的な人とは逆に、自分が心理的に依存している人のことばかり考える、自分の存在を消す「自己消滅型」の人は怒りを自分に向けることでうつになりやすい。

自己消滅型の人の矛盾は、相手の称賛や名誉がほしいということである。自己消滅型の人は先にも述べた通り、病的依存心がある。他人の評価なしに自分の自尊心を維持できない。自分が自分であるといういう確かな感じを持つためには、他人の評価が必要である。
他人の評価を心理的に必要とするということは弱さである。その弱さを相手に見抜かれる。相手の称賛や名誉が心理的に必要というのでなければ、相手に対して服従する必要はない。対立する必要もない。その人と関係なくなればいいのだから。自己消滅型の矛盾は、人を恐れながらも人を必要としているということなのである。

自己消滅型の人がストレスで胃潰瘍にでもなり、働けなくなった時には(高慢な人に利用されていたばあい、)ただちに捨てられる。高慢な人は利己的であり、冷たい。自己消滅型の人の出口というのは、この高慢な人,心の冷たい人、利己的な人の現実の姿を正面から見つめることなのである。
自分はどのような人に誉められるために自分を犠牲にしているのか、という現実を見つめることなのである。自分がストレスで倒れるまで必死になって得ようとしている好意とか称賛は、一体どのような人の好意であり、称賛であるかということである。

劣等感の強い人はどうしても自己蔑視してしまいがちである。自己蔑視してしまったものは自己礼讃ができなければ、自己蔑視におちいるという二者択一の心理状態になるから、強迫的に名声を求めるのである。成功できない普通の自分を自分が尊重できれば、強迫的なまでに成功を求め、消耗することもない。

心の中に恐れのある人は何もしないうちに、煩悩悶で消耗し尽くす。恐怖心を取り除けるのは行動である、というのはウェイン・ダイアーやシーベリーが共通していっていることである。

他人への思いやりから他人を喜ばそうとする人は、強い人である。しかし他人を恐れるがゆえに他人を喜ばそうとする人は、弱い人である。

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